株式相場は公正なゲームか?

ということで、お久しぶりのグリフインであります。

タイでアメリカのロリコン男が捕まったそうですが、タイはミスター・玉本がチェンマイでかつてやっていた生活を今も可能にする土壌があります。

ガキのバージンならエイズにもかからねえだろう、などと、完全にアタマのネジがぶっ飛んだやつがうろうろする。

売るやつがいて、買うやつがいる。需給は結構バランスがとれているというのが難儀であります。

欧米もいるが、ニポンももちろんいる。ハッポン・ストリート近くのホテルの夜のロビーで、お持ち帰りされている女性の大群の、年格好と、その相方が白か黒かキイロかを見ただけでも察しが付くというものでありますが。

ということで、本題。笑。

株式市場とバクチとは違う、などというけれども、本質はそんなに違わないというのは相場をやり始めると身にしみてわかる話。でも、勝つ方法論が少しはあるのが単なるバクチとの違いでもあるのでしょう。

ということで、「社会派くんがゆく!」returns:

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亀田でハッピー?   唐沢俊一

 私に1人の師がいる。
 その師の名前も知らないが、20代の一時期、ほぼ毎日のように、会って教えを乞うていた関係であった。

 もちろん、その師は教育機関などに奉職していたわけでは全く無く、一般教養、いや一般常識ですら、どれほど身につけていたものか疑わしい。
 しかし、彼の知識は大学あたりで教わる虚学と異なり、そのひとつひとつに、世間で生きていく上での知恵、世間が動いていく本当の仕組みというものを教えてくれた点で、非常に有意義きわまりないものであった。私は現在もなお、この師から教わったこと以上に人間の本質をついた言を聞いていない。その授業を受けていた学校は20代のころ、下宿していた阿佐谷駅の近くにあったホルモン焼きの店であり、彼は梅割り焼酎を片手に、若造であった私に、世の中の裏を毎日、教えてくれていた。師の本業は、競馬の賭け師であり、地方競馬に関してはおよそ裏の裏まで知り尽くしていた男だった。私が今、一切のギャンブルに手を出していないのは、若いころ、この師の話を聞いて、一般人がギャンブルで儲けるということは絶対に出来ないことである、と教え込まされたからであり、かつ、ほとんどのスポーツに興味がないのも、その裏側の事情がどういうものであるかを、彼からこと細かに聞いているためである。師がひとつ話として何度も私に語ったのは、北九州の競馬で本命馬に下剤をのませて負けさせようと苦労した話であり、そのエピソードのオチは、

 「ところがな、本命馬ってのはエラいもんでなあ、コースじゅうに下痢便を巻き散らかしながら走って、一位になっちまった。話にならん。大損したけど、しかし感心したな。馬ってのはエラい。人間なんかより、よほど根性がある」

 というものだった。彼はこれ以外の話でも、とにかく馬を賛美していた。馬は純粋で可愛い生き物だからである。師はそれまでは、野球やプロレスなど、人間たち主体の興業にずっと関わってきたが、今(その20年前の時点)で足を洗って、競馬に転向しているのは、
「人間は基本的に汚い」
 から、だったということである。本命馬に下剤をのませて下痢をさせて大穴を出そうという行為がキレイなのかどうかには疑問があるが、世の中は相対的なもの、という立場に立てば、競馬は馬という純粋無垢なものを間に立てている分、まだウソがない部分があった、ということだろう。人間ばかりで成り立っている勝負の世界(師が主に関わっていたのは野球だが)は、師の口癖を借りれば、
「お話にならん」
 ものだったそうである。人間が関わって、そこに金が生じる以上、人間というのはおよそどんなことでもやり、また金が手に入れば、人間はどんな汚いことをしても、さほど良心の呵責というものは感じない生き物であるらしい。

 そういう“教育を受けて”育った私にとり、亀田興毅の先般の試合結果など、別にどうってこともない、“よくある”試合でしかなかった。裏にヤクザがついていた、と報じられ、人が騒いだのに逆に私は驚いた。これまで、ボクシングの世界タイトルマッチで、裏でヤクザが動いていない試合が一試合だってあったと思っているのか。それどころか、ランダエタ選手のベテランらしい試合運びにペースをさんざ乱されつつも最終ラウンドまできちんと亀田がもったことに、私はある種の感心さえしたのである。もし本当に亀田がインチキ王者であるのなら、彼のパワーが限界になる中盤のラウンドあたりで、いい加減に繰り出したパンチが、ランダエタに“偶然”ヒットしてしまい、ダウンしてKO勝ちで王者誕生、となるというのがパターンであろう、と思っていたのだ。ボクシングで最も体力を使うのがオールラウンド戦い抜くということであり、例え裏でどういう“話”が進んでいたにせよ、ここをクリアしたという点で、亀田にはある程度の力量がある、と見ていいだろう。

 ただし、亀田は、ここは世間一般の見るイメージ通りに、いささか頭脳の面において問題があり、かつ自分の実力を客観的に見るにはうぬぼれが強すぎた。その誇大自己症候群的な性格が、変な小細工を弄しないでも自分は相手をしとめることが出来る、というこだわりにつながり、結果として、審判たちに余計な手間をわずらわせなくてはいけないこになったのではないか。私はこの試合を観て、かつて自分の師がしみじみつぶやいた、ある言葉を思い出したのである。

 「……馬は利口だが、人間はバカだ」

 バカな若造のふがいなさを、オトナたちが必死に糊塗しようとした結果があの試合だったように思えてならない。

 しかし、結果として放送局であるTBSはこの試合で42パーセントの高視聴率をマークし(その後仕事でTBSに行ったのだが、ロビーに“祝・高視聴率”とポスターがデカデカ貼ってあり、オマツリ気分が横溢していた)、その局に抗議をした視聴者たちは“自分は正義を履行した勇気ある男だ”という満足感を得、やくみつるも無毒無害なだけで全然面白いことを言わないコメンテーターであるという評判をあんな脱力気味のものではあったがパフォーマンスひとつで払拭し、もちろん、裏で興業に関わったヤ印の人々も金の動きに番狂わせがなかったことに満足し(もし、ここでランダエタが勝っていたら、彼はまともに日本から出国できたことかどうか疑わしい。そればかりか、全国の興行師の三人や四人は川に浮かぶことになったであろう)、亀田親子にもたっぷりのファイトマネーが入り、三方四方、円くおさまった、実に後味のいい試合であったとすら言えるのではないか。

 スポーツとは何のためにあるものか。それは一口に言って、
 「日ごろのストレスのガス抜き」
 にあるだろう。力道山の昔から、政治がスポーツに介入するのは、国民たちが政府に持っている不満や憤懣を、変な政治方向に向かわせないための、ガス抜き対策としてそれが有効であるからだ。
 ところが、現在は国民たちのもつ情報量が格段に大きくなり、またそれに比例して考え方もそう単純ではなくなってしまっている。ごく簡単に、力道山シャープ兄弟に空手チョップを奮うだけで国民はストレス発散が出来なくなっている。それどころか、力道山北朝鮮国籍である、などということすら、あっという間にネット上で情報が流出してしまうだろう。いわばそういうヒネクレた国民を相手にしなくてはいけない。ガス抜きも、単純な方法では出来なくなっているのである(サッカーのサポーターくらいだろうな、今日びあそこまで単純なのは)。

 そういうヒネクレた国民のストレスは、先日の試合に対する自らのブーたれをTBSに表明し、ブログに書き込み、さらにはベネズエラ日本大使館宛に“日本を嫌いにならないでください”などという手紙を送るというようなわけのわからん行為をすることで、多くは解消されたのではあるまいか。これが、亀田のような“嫌われキャラ”が相手を一方的に倒したというような、ダイレクトな勝ち方をした試合であったなら、ああまでオマツリ気分で盛り上がったかどうか。あの結果に怒った人全ては、“亀田祭り”という大きなガス抜きイベントに参加させられてしまったのである。

 力道山の時代のように物資に不足していた時代であれば、庶民は“欲しいものを与えられる”というだけで喜んだ。いまのような飽食の時代に国民を動かすのは、むしろ“与えられないことの快感”なのである。

 最後に、私の師の教えの中で最も私の心に残っている一言を述べて、この記事を終えたいと思う。

「人間てのは不思議なもんで、ギャンブルやって負けると“ああ、この競技は公平に行われている、だから自分が負けるんだ”と思って満足する。仕事や人間関係ではそうは考えないくせに、ギャンブルには公平性があると素直に信じている。競技結果に文句を垂れるやつはだいたい斜にものを考えているようなやつばかりだが、こういう人間はまず、自分で試合に賭けはしないから、興行主は何にも困りはしない。世の中はそういう風に出来ているもんだよ……」

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まあここでは、もう一皮むいた話をしているはずなのですが、面白かったので。